2026.10.26更新

名前のない一日
 
大学に入学して、私は、ワクワクしていた。大学の授業、キャンバスの景色、学生たちの喧騒、すべては新鮮に感じた。数ヶ月経った頃、友人に誘われて、学生生活に付き物のアルバイトを始めた。最初に面接を受けた流行りのファーストフード店でのバイトはすんなり決まった。初めての仕事だったが、初期研修を受けた上で、マニュアル化された業務は無難にこなして、1ヶ月過ぎた。客に対する挨拶も板についてきた。多少のアドリブも入れられるようになった。
 そんなある日、外は見えるくらいの雨が降っていた。客もいつもより少な目だった。雨を避けるようにフードを頭に被った高身長の男性が店に飛び込んで来た。肩の雫を手で払い、最後にフードの雫を払い、フードを外した。私は、ずっと一連の動作をみながら、何かが始まる予感がしていた。その予感は、フードを外した瞬間、現実になった。一目で、その男性に好意を持った。   
 彼は、カウンター上部のメニューを見るために私の前に立っていた。それから、低い落ち着いた声で注文した。私は、かろうじて、彼の注文を記憶し、反復してオーダーした。会計金額を告げ、彼は支払った。いつもは、
「商品が出来上がるまでお待ち下さい。」
で終わる。それが、どうしたのだろうか、自分でも、わからないが、反射的に、
「その髪型、カッコいいですね。」
と発してしまった。
「ありがとう。」
 彼が平坦に答えたとき、私は我に帰って急に恥ずかしくなった。顔が自分でも紅潮するのがわかった。たぶん、目の前の彼にも伝わったはずだ。私はドギマギしていた。彼は席を確保するためにすぐ、その場を離れた。
 突拍子もない自分の言動に困惑していた。もじもじしている間に
商品が出来上がった。注文番号をコールした。いつもなら、無機質にかなりの音量で呼べたのに、その時ばかりは、少し小さな声で、彼の番号をコールした。彼も数分前のやり取りを覚えていて、意識した感じで私の前に来た。
「どうぞ。」
商品確認が飛んだまま、渡してしまった。それで終わりになると思った矢先、
「明日も、バイトしてますか?」
突然、彼が質問して来た。予想しない展開に戸惑い、
「いいえ。」
と反射で返答した。なんて無愛想なトーンだろう。自分でもそう思うくらい嫌そうに聞こえる返事だった。
「そうですか。すみません。」
彼の言葉は、完全に拒否されたという落胆した応答だった。意図せぬ流れに私も自己嫌悪に苛まれた。私が声を出せないままでいる間に、彼は店の一番角のテーブルで大人しく、食べ始めた。なんて間抜けな事してるんだろう。気持ちと言動がバラバラのまま、
(どうにかしないと、)
と私はそう考えていた。すると、目の前のレシートが目に入った。彼のだった。その瞬間、私の心が動いた。私はレシートの裏に
(火金土がバイトです。.)
と走り書きして、彼のテーブルまで急いだ。
「レシート、お忘れです。」
と声に出して、彼のテーブルに走り書きを伏せて置いた。そして
すぐ、持ち場に戻った。
(気づいてって)
心で念じてずっと彼を見ていた。レシートは背中越しで見えない。少し経って彼が振り返って、私を探した。すぐに目が合った。彼は右手のレシートを顔の横にあげ、声には出さずに、私に
「わかった。」
と大きく口を動かし、返事した。そして、表情は笑顔へと変わっていた。明日は木曜、明後日はバイトの日。彼は来るだろうか。でも来てくれる予感がした。あさってのー好きーが色づいて感じられた。私の拙い告白は私の少しの勇気で、結実するかもしれない。これから2人の前には真っ白な未来があってそこに2人でなにかを描いてゆくことになるかも知れない。一緒に笑ったり、みつめあったり、同じ時間をともに過ごすことになれば、嬉しい。私の妄想は、瞬く間にひろがり、私は、春の中に溶けていく感覚を覚えた。その体は既に宙に浮いていた。恋はやがて愛になる、そう確信した。名前のつかなかった今日は、出会いという名前のついた日へと変わった。

 

投稿者: 葉山クリニック

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