2025.06.09更新

宗像市葉山クリニックの撫中です。今年もツバメが飛来し、産卵、子育て、巣立ちをしました。巣立ち後、4-5日で新たな巣作りが始まりました。というのも、先の巣は巣立ちとほぼ同時に地面に落下してしまったからです。ツバメは年に1-2回産卵、子育てすると言われています。今回も同じ番(ツガイ)なのでしょうか?1回に5匹くらいまで子育てしますが、必ずしも、父親が同じとは限らないとのこと。雌は他の雄とも交尾し、産卵するため、同じ巣には父親の違う雛がいることもあるようです。自然界の種の保存は厳しく、愛だの恋だの言ってる人間とは大きく、繁殖の意味合いが違います。人口の減少、少子化、超高齢社会を考えると、そのうち、人間も繁殖本位の時期が来るのでしょうか?

投稿者: 葉山クリニック

2025.05.16更新

宗像市葉山クリニックの撫中です。表題のテーマはご存じでしょう。赤ちゃんが母体内にいるときの話を2-4歳くらいにしゃべる、というものです。研究者によれば、胎内記憶に止まらず、受胎時前後の話も語られています。例えば、「私(赤ちゃん)はお父さんとお母さんを空から見てて、選んできた。」というようなことも数多く、胎内記憶として語られています。ここで、記憶とは何か、簡単には、体験したことを覚えていること、と言えるでしょう。となると、受胎時前後には体験する個体(肉体)、記憶を担う脳がまだありません。つまり、記憶というより、肉体とは別の「意識」というものが存在し、それが、肉体にやがて降臨する、という仕組みが必要になります。この「意識」については、2024.10.15「reincarnaton(生まれ変わり)」で考察しており、今回は、狭義の胎内記憶について考えてみます。筆者は過去に新生児(主に低体重で出生)の脳血流の定性を経験し、論文化しました。新生児は、体重増加に伴い、脳血流の分布を、視床・大脳基底核部優位から大脳皮質優位へと移行していきます。概して体重4000gくらいを境に移行します。そのことを踏まえると、胎内では、視床・大脳基底核部優位であると言えます。一般に新しい記憶は海馬にファイルされ、その後大脳皮質に蓄積されていきます。胎児の胎内での体験は、海馬にファイルされ、記憶されることになります。その後、その記憶が大脳皮質に移行し、言語化できる2-4歳で想起され、語られる、ということになります。胎児が情報を入力する最大の感覚器は聴覚です。すでに妊娠5か月くらいには外部の音は聞こえているようです。つまり、妊娠中、赤ちゃんに語り掛けたり、その場の環境音を聞かせたりすることは胎児の体験として成立するのでしょう。また、母体の感情の起伏も、神経伝達物質のパターンに応じ、間脳に刷り込まれる可能性は大いにあると考えます。人間形成は受胎したときから、すでに始まり、一番近くにいる母親、父親の環境としての影響は当然ですが、大きなものとなります。胎教、大事ですね。

投稿者: 葉山クリニック

2025.05.10更新

宗像市葉山クリニックの撫中です。以前にも記述した魚群の話です。魚群には特定のリーダーが存在しないと言われています。各個体は自分の体長に合った図有速度で自由に泳ぐことができ、各個体問で視覚,側線などの感覚器官を通じて情報交換が行われ,相互誘引力および成群カの作用により群(SchooI)が形成されるそうです。隣同士の感覚で見事な大群の統率のとれた動きになるのです。おそらく個々の個体間は平等で、序列(順位)もありません。一見、争い、揉め事もなさそうです。知能が高度になると、リーダーが現れ、支配するもの、されるものが出てきます。そこに不満、利害関係が発生し、争いが起こります。魚群の先頭の個体を掬い取っても群れは崩壊しません。ヒトの世界ではリーダーが交代すると大きく、体制が変わります。どちらが普遍的な集団行動の形成様式か一目瞭然です。ヒトにもSchoolがありますが、徐々にそれも崩壊しつつあります。国際社会、国、地域、家庭とSchoolがあることがむしろ弊害であるような高度な社会になってきています。ヒトは「めだかの学校(school)」に立ち返ることも必要だと思うこの頃です。

投稿者: 葉山クリニック

2025.04.18更新

宗像市葉山クリニックの撫中です。今、日常的に、「先生」と呼ばれています。先生とは、学問や技術・芸能を教える人。学識のある人や指導的立場にある人。親しみやからかいの意を含めて他人をよぶこと。年長者。教師・師匠・医師・議員などの職業に就いた人が多くの場面で呼ばれる呼称です。同じ立場の場合、お互いを「先生」と呼ぶこともありますが、この場合、もう一つ年齢や経験などの条件が加味され、上位にいる人は下位の者に「先生」とは言わないこともあります。つまり「先生」とよばれるには見合う実力が必要だということです。私の狭い経験では、医師としての初日、病棟で、初めてスタッフから、「先生」と呼ばれ、むずむずした感じを覚えました。決して心地いいものではありませんでした。自身で、「先生」と呼ばれる資格がないことを自覚していたからです。ある日突然、「先生」と呼ばれ、その呼称に見合う責任と仕事内容を要求されます。そのギャップは果てしなく大きいものでした。実際、「怖い」と感じました。その後は、「先生」に見合う実力・経験・知識を身に着けるように努力・精進しました。しかし、未だにこれで終了という到達点は見えず、むずむずした感じは時間経過とともになれてしまい、なくなりましたが、「怖い」は折に触れ、感じています。小学5年生の家庭訪問で担任の〇村先生が、「〇〇高校にいって、東大に行かせなさい。」と母親に話しているのを傍らで耳にした私は初めて「先生」と呼ばれる職業を意識しました。しかし、田舎の漁師町のひとり漁業の家庭にはなかなか遠い話にしか思えませんでした。ただ、その時に〇村先生が示してくださった「可能性がある」ということを知ったことが意味ある事だったと思います。

投稿者: 葉山クリニック

2025.04.03更新

宗像市葉山クリニックの撫中です。昨日、April foolの嘘もつきにくくなった、と感想を述べたのですが、午後診療で、患者から予想だにしないことを言われました。「先生、ビニールテープは貼っても咳が止まりませんでした。」と、???。1か月前に、咳が止まらず、息苦しいと訴えた患者に気管支拡張の貼付剤を処方していました。その際、薬剤の「プラセボ効果」について説明し、有効な薬剤が含まれていなくても、約半数のヒトは自覚症状が改善するんだという趣旨のことを話し、だから、「ビニールテープでも効きますよ。」というコメントをしたようです。私は全く記憶がなかったのですが、スタッフが経緯を記憶していました。患者は貼付剤終了の後、ビニールテープを真面目に貼ったのでした。これで、冒頭のコメントになったのです。いやはや、冗談のつもりでしたが、患者は大真面目に実行。けっして責められない事柄でした。それほど医師の言葉は重いということを実感した一件でした。幸い患者は笑顔で、その場はふたりして大笑いでした。

投稿者: 葉山クリニック

2025.04.02更新

宗像市葉山クリニックの撫中です。昨日、April fool でした。残念ながら、嘘をつきませんでした(それが嘘だという指摘もありますが)。嘘を考える時間的余裕がなかったのでした。昔から、マス・メディア(新聞、ラジオ、など)もウィットにとんだ嘘をついたものでした。それを真に受けた海外の報道機関も真面目に報道したような時代もありました。それらも含め、冗談で済まされていたものでしたが、最近のアメリカ大統領選挙のころから、フェイクニュースが増加して冗談ではないものが散見され、真実と偽るニュースが混在するようになり、April foolがでの冗談である嘘が減少したように感じます。冗談はひとを和ませるものですが、冗談には聞こえない時や、相手によっては侮辱と感じさせることもあり、軽々に冗談も言えなくなってきました。開業時に「診察の中で一笑いさせる」という目標を掲げていたのですが、実行も難しく、たとえ冗談言えたとしても、はたして真意が相手に届いたか否か、不安になる毎日です。しかし、時々、先生は面白いことをいう、といわれることもあり、リスクをおかして挑戦し続ける毎日です。

投稿者: 葉山クリニック

2025.03.19更新

宗像市葉山クリニックの撫中です。本能とは、実社会でもしばしば使用される言葉であります。しかし、その定義は意外に難解で、医学・生理分野では、使用が限定されています。それは、実社会での使用に多様性がありすぎるためのようです。代表的な語釈は、以下の通りです。

1.生まれたとき、あるいは発達の特定の段階で存在する性質。2.学習なしでも存在する性質。おそらくもっとも一般的な用法。3.遺伝的である性質。高い確率で世代を超えてみられる性質。

一般的に「食欲、性欲、睡眠欲、集団欲、帰巣本能」などよく耳にします。ヒトは本能を発生する脳の上位にそれを制御する大脳が発達した種です。さらに学習という行為で制御のルールを獲得します。しかし、容易には強い本能を制御できず、しばしば本能(情動)に負けて行動するものです。それがルールを破るものであれば、犯罪となることもしばしばです。このルールの線もかなり微妙で、その行為が成就すれば、了承されることとなります。典型例は「恋愛」です。一方的であれば、ストーカー、了承されれば、交際、となります。下等動物に恋があるかどうか不明ですが、ヒトは本能と学習(理性)の間で喜び、苦悩など様々な感情に翻弄され、時を刻んでいます。いろんな人生模様が起こります。「ただ会いたい、ただ触れていたい」と感じる気持ちは純粋でもルールある社会ではすべて許されることではありません。ここにこそ人それぞれの多様で実に面白い人生の源泉があるのでしょうね。

投稿者: 葉山クリニック

2025.02.19更新

宗像市葉山クリニックの撫中です。人間には寿命があります。言い換えれば、必ず死が訪れるということです。しかし、日常元気な時には、死を意識して生活する人は稀有だと思います。そんな中でも医療従事者は一般の方よりも日常的に死を意識する現場です。そして根本的に、医療はやがて死を迎えたときに「敗北」するわけです。つまり、 最初から、死は自明の事実であり、永遠に死なないこと、を目的としてはいません。しかし、病気になった時には、適切な医療を提供して、当面の死を回避しようと努力します。医療は寿命を受容したうえでそれを全うさせるため、行うものであると換言できるかもしれません。だから、寿命より、かなり手前での病気に対しては積極的に当面の完治を目指しますが、寿命近くでは、そうでないこともしばしばあります。永遠の生は今のところ実現しておらず、医療は寿命までの間の容態の悪さを治すこと、生きている間は元気であること、になんとか役立っているのです。不思議なことに死を迎えるとき、患者、家族から「感謝」されることが稀にあります。治して感謝されることはあっても、死んで感謝されることはない、もしそんなことがあるとしたら、それは医師にとって幸せなことなのかもしれません。

投稿者: 葉山クリニック

2025.01.22更新

宗像市葉山クリニックの撫中です。日本語以外の言語から、日本語に変換するとき、直訳するとある程度の意味は伝達できるものの、日本人の感性や情緒は伝わらないことがあります。日本語から他の言語への変換も同様だと思いますが。有名な逸話で、夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したというのがあります。学生の直訳に対し、日本人はそんな言い方はしない、これくらいでいい、とたしなめたというものです。また、小説家の二葉亭四迷はロシア文学「片恋」を翻訳する時、「ваша(=yours)」を「死んでもいいわ」と訳しました。yours、つまり「あなたのものよ」という言葉を「死んでもいいわ」と訳したのが、漱石の「月が綺麗ですね」と共通することで、セットとして知られています。しかし、時代が変わり、奥ゆかしいものも減り、逆に直接的に伝えないと伝わらない世の中になってきたのも事実です。日常会話はそれでいいと思いますが、文学では、やはり日本語の感性豊かな行間の風景を彷彿させる表現は残っていってほしいものです。

 

投稿者: 葉山クリニック

2025.01.07更新

宗像市葉山クリニックの撫中です。時計と地球の自転のずれを調整する「うるう秒」が2035年までに実質的に廃止される見込みとなった。11月に標準時のもとになる時刻の管理を担う国際組織の会議「国際度量衡総会」で決議があった。「うるう秒」は地球の自転(潮の満ち引き)速度のむらによるずれであり、不規則に発生し、直前までわからない。「うるう年」とは地球の公転が元々正確に365日より、わずかに長いため、4年に1度1日プラスすることで調整しており、予測はできるものである。「うるう秒」は原子時計という極めて正確な振動をもとに協定世界時(UTC)できめられる。しかし、インターネット、PCの普及した現在これを調整することによるトラブルが懸念され、廃止されることになった。廃止するしても何百年たっても1-2分のずれということで、許容されるようだ。「うるう年」は従来通りであり、オリンピックは開催される。最初に聞いたときの心配はなくて済みそうだ。

投稿者: 葉山クリニック

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